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マルゼンスキー〜今でも競馬ファンたちの会話に登場する愛された名馬〜

text by 中西友馬

マルゼンスキー(Maruzensky)

1970年代に、通算成績は8戦8勝、2着につけた着差の合計は、60馬身以上という驚異的な記録を持ったマルゼンスキー。現在では持込馬も活躍しているが、マルゼンスキーは当時の規定で出走できるレースが少なく、限定的なレースで勝ち鞍を増やした。今も往年の競馬ファンの中で話題になる愛された名馬である。

1976年朝日杯3歳Sを勝ったマルゼンスキー
1976年朝日杯3歳Sを勝ったマルゼンスキー

プロフィール

性別 牡馬
ニジンスキー
シル
生年月日 1974年05月19日
馬主 橋本善吉
調教師 本郷重彦
生産者 橋本牧場
通算成績 8戦8勝【8-0-0-0】
獲得賞金 7660万1000円
主な勝ち鞍 朝日杯3歳S(1976年)
受賞歴 最優秀3歳牡馬(1976年)
顕彰馬(1990年選出)
産駒成績 産駒デビュー:1981年
通算重賞勝利数(中央):21勝
通算G1勝利数(中央):4勝
代表産駒 サクラチヨノオー(1988年東京優駿)
レオダーバン(1991年菊花賞)
スズカコバン(1985年宝塚記念)

〜時代に翻弄されたスーパーカー〜

 「賞金もいらない、大外枠でいい、他の馬に迷惑をかけないから出走させてほしい。」とダービー前に語ったのは、マルゼンスキーの主戦を務めていた中野渡騎手。それほどまでにマルゼンスキーの能力に惚れ込んでいたわけだが、それもそのはず。この時点でマルゼンスキーは、デビューから6戦6勝と負けなし。さらに、朝日杯3歳S(現朝日杯FS)で2着に2秒2もの差をつけてレコード勝ちを収めるなど、圧勝続きだったのである。

 それでもマルゼンスキーは、ダービーに出走できなかった。それは、マルゼンスキーが持込馬であったからである。持込馬というのは、母馬が国外で受胎したのちに日本に輸入し、日本で産んだ仔のことを呼ぶ。その当時、持込馬は外国産馬同様の扱いをされ、有馬記念以外の八大競走への出走が認められていなかった。これが定められていたのは1971〜1983年の間のみであったので、マルゼンスキーはとにかく生まれた時代が悪かった。

 結局マルゼンスキーは、八大競走の中で唯一出走できる有馬記念と、八大競走に含まれていない宝塚記念しか大目標とするレースがないという状況に陥った。さらに、それ以外のレースでも持込馬の出走できる混合競走は少なく、また、マルゼンスキーが強すぎるために他馬の回避が続出し、競走不成立となるレースもあった。

 そんな調整が難しい状況の中でも、マルゼンスキーは出走したレースに勝ち続け、有馬記念のファン投票でも年長馬であるテンポイント、トウショウボーイ、グリーングラスのいわゆる「TTG」に次ぐ、第4位に選ばれた。それにも関わらず、直前に屈腱炎を発症。ずっと目標にしてきた有馬記念も走ることができず、マルゼンスキーは現役を引退した。通算成績は8戦8勝、2着につけた着差の合計は、60馬身以上という驚異的なものであった。

 ちなみに、マルゼンスキーがターフを去って10年強が経った1988年、マルゼンスキー産駒のサクラチヨノオーがダービー制覇を達成。10年の時を超え、ダービーへの出走が叶わなかった父の無念を息子が晴らした形となった。

 脚元の不安から、全力で走ったことはなかったとも言われたマルゼンスキー。中野渡騎手が語ったように「大外枠でダービーに出走していたらどうなっていたか?」や、もし脚元に問題がなく「有馬記念でTTGと戦っていたらどうなっていたか?」など、さまざまなifが考えられる馬であった。この数々のifに答えが出ることはないが、50年近く前に活躍した馬にも関わらず、今でも往年の競馬ファンたちの会話に登場するマルゼンスキー。それだけファンに愛された名馬であった。

【了】

(文●中西友馬

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