HOME » セレクト » 『馬の博物館』が伝える日本競馬のはじまり【第1章】「開国と外交」

『馬の博物館』が伝える日本競馬のはじまり【第1章】「開国と外交」

text by 中西友馬
ザ・ファー・イースト/1870年11月16日号【馬の博物館所蔵】
ザ・ファー・イースト/1870年11月16日号【馬の博物館蔵】

「競馬がなくなるかもしれなかった時代が、2回あるんです」
 横浜・根岸にある馬の博物館でそう語ってくれたのは、同館の学芸員・秋永和彦さんだ。

 いま日本競馬は、世界有数の売上規模を誇り、海外GⅠでも結果を残す存在となった。多くのファンがレースに熱狂し、インターネット投票の普及によって競馬はより身近な娯楽になっている。

 しかし、現在の人気からは想像しにくいが、日本競馬の歩みは決して平坦ではなかった。外交の舞台として始まり、戦争と深く結びつき、制度的な混乱と社会的な逆風を受けながら、幾度も存続の危機を乗り越えてきた歴史がある。

 本特集では、学芸員への取材をもとに、日本競馬150年の歴史を五つの視点から整理する。今回は第1章。

第1章「開国と外交」

~開国とともに始まった競馬~

 日本競馬の出発点は、1859年の横浜開港にある。

「開国によって横浜に多くの外国人が居留しました。その人たちが母国で親しんでいた娯楽の一つが競馬だったんです」

 学芸員の秋永さんはそう説明する。

 1860年には現在の元町商店街付近で競馬が行われた記録が残っている。さらに1862年には中華街付近でも開催された。当初は専用の競馬場ではなく、広場での開催だった。

「当時は外国人による、外国人のための競馬でした。日本人は基本的に参加していません」

 つまり、日本競馬の原点は“国際都市・横浜の居留地文化”にあった。

 やがて外国人居留地が手狭になると、本格的な競馬場建設の要望が幕府に出される。そのさなかの1862年には「生麦事件」が起こった。

「外国との関係が非常に緊張していた時期です。関係改善の意味もあり、幕府は競馬場建設を受け入れたと考えられています」

横浜吉田橋通繁昌之図 二代歌川国輝 1870年(明治3)【馬の博物館所蔵】
横浜吉田橋通繁昌之図 二代歌川国輝 1870年(明治3)【馬の博物館蔵】

 候補地はいくつかあったが、最終的に選ばれたのが根岸だった。中心地からやや離れ、衝突を避けやすい場所だったという。

 こうして誕生した根岸競馬場は、日本における近代競馬の本格的なスタート地点となった。

「馬の博物館が根岸にあるのは、ここが日本競馬の発展を支えた地だからです」

 横浜・根岸。この地名は、日本競馬史を語るうえで欠かせない場所である。

【了】
【著者プロフィール:中西友馬】
1993(平成5)年6月18日、神奈川県横浜市生まれ。大学卒業後、競馬新聞社に入社し、約7年間専門紙トラックマンとして美浦に勤務。テレビやラジオでのパドック解説など、メディア出演も行っていた。2024年よりフリーライターとしての活動を始め、現在は主に、株式会社カンゼンが運営する競馬情報サイト『競馬チャンネル』内の記事を執筆している。

【関連記事】
『馬の博物館』が伝える日本競馬のはじまり【第2章】「明治国家と競馬」
『馬の博物館』が伝える日本競馬のはじまり【第3章】「戦争と馬券」
【全ページ紹介】日本近代競馬の原点・根岸競馬場 ― 『馬の博物館』が伝える日本競馬のはじまり