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革命級の調教…!日本競馬を変えた坂路の申し子(2)完璧なサイボーグ!のはずが…脆さに完敗したスパルタ調教

text by 中川大河

平成の競馬界は「西高東低」といわれた。関東のG1であっても、関西馬が活躍することは珍しくなかった。一方、昭和後期は「東高西低」で、ミスターシービーやシンボリルドルフを含む関東馬が、1983年から1990年までダービー8連覇を達成した。この流れを変えた一つの要因が、1985年栗東に整備された坂路コースといわれている。坂路調教が関西馬の飛躍を大いに支えたのだ。今回は、そんな“坂路”に着目。坂路調教で鍛えられた名馬5頭を時系列で紹介する。今回は2頭目。

1992年日本ダービーを制したミホノブルボン
1992年日本ダービーを制したミホノブルボン

②ミホノブルボン

~ザ・坂路の申し子~

 トウカイテイオーの翌年、1992年のダービーを制したのが“坂路の申し子”ミホノブルボン(栗東・戸山為夫厩舎)である。1歳上の先輩と同じく6戦無敗でダービー馬に輝いたが、大きく異なっていたのがその血統背景だ。

 三冠馬シンボリルドルフを父に持つトウカイテイオーに対して、ミホノブルボンはマグニテュードというやや地味な輸入種牡馬が父だった。マグニテュードはアリルランドでの現役時代に未勝利のまま引退したが、良血という理由で日本へ輸入されていた。

 その産駒は短距離馬がほとんどで、ミホノブルボン自身も例外ではなかった。中京芝1000mで行われたデビュー戦をレコードで制し、朝日杯3歳S(現朝日杯FS)を勝利したとはいえ、ハナ差の辛勝だったため、その後は常に距離不安が付きまとまった。

 それを覆しての牡馬クラシック二冠達成の陰には戸山調教師によるスパルタ調教があった。多い日には5本もの坂路調教を課すことで、“栗毛のサイボーグ”とも称された筋肉質のボディが完成した。

 天性のスピードに、坂路で鍛え抜かれたパワーと持続力が加わったミホノブルボンなら、淀の3000mも持つだろう……・。三冠馬の誕生を期待したファンは、菊花賞でミホノブルボンを断然1番人気に支持した。

 ところが結果は、ライスシャワーに1馬身1/4突き放されての完敗で、2着を死守するのがやっと。その後は、度重なる故障で、結果的に菊花賞が現役最後のレースとなった。

【了】

(文●中川大河)

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