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オルフェvsジェンティルの激闘やアーモンドアイの世界レコードなど【ジャパンカップ名勝負 5選②】

text by 中西友馬

1981年に世界に通用する馬を作る目的で創設されたジャパンカップ。グレード制が導入された1984年にG1格付けを果たし、1992年には日本初の国際G1に指定された。2000年からは日本の最高賞金レースとなっている。開催日程や施行条件は第1回から基本的に変わらず、改修工事などを除いては11月の東京芝2400mで行われてきた。そんなジャパンカップの歴史の中から、後半は2003年からの5つのレースをピックアップして紹介する。

Tap Dance City
第23回ジャパンカップを制したときのタップダンスシチー

⑥2003年(勝ち馬タップダンスシチー)

 ファルブラヴが勝利した翌年となる、2003年のジャパンカップ。この年の1番人気は、4歳となったシンボリクリスエス。前年のジャパンカップ3着の後は、年末の有馬記念を勝利。宝塚記念ではヒシミラクルの5着に敗れたが、秋初戦となった天皇賞(秋)を快勝して連覇達成。2年連続で1番人気の支持を受け、ジャパンカップを迎えていた。

 2番人気は3歳馬のネオユニヴァース。この年の春2冠馬で、ダービー後に参戦した宝塚記念でも4着と、シンボリクリスエスに先着。3冠を目指した菊花賞ではザッツザプレンティの3着に敗れたが、ダービーを制した舞台での復活に期待がかかっていた。

 シンボリクリスエスが単勝1.9倍という断然の1番人気となり、ネオユニヴァースは単勝7.0倍の2番人気。この2頭までが単勝10倍を切る人気に推され、発走を迎えた。

 レースは、タップダンスシチーがハナを切り、ザッツザプレンティが2番手につける。シンボリクリスエスは中団の前あたりを追走し、ネオユニヴァースは中団後方寄りから進めていた。タップダンスシチーは徐々に後続を引き離し、10馬身以上のリードを作る大逃げ。

 しかし前半1000mの通過は1分01秒9と、前日の雨が残った重馬場を差し引いても決してハイペースではなく、ほぼ平均ペースで進んでいた。3〜4角の中間あたりから2番手のザッツザプレンティ以下も前との差を詰め始め、タップダンスシチーのリードは5馬身ほどとなって4角を回り、最後の直線へと向かう。

 直線に入ってもタップダンスシチーの脚いろは衰えず、最内で5馬身ほどのリードをキープしたまま。ザッツザプレンティが2番手から馬場の真ん中へと出して追い上げにかかるが、なかなか差が詰まらない。

 ザッツザプレンティの内からネオユニヴァース、外からシンボリクリスエスも伸びてくるが、ザッツザプレンティとの2番手争いが精一杯。残り200mあたりから逆に差を広げ始めたタップダンスシチーが、最後は9馬身の差をつけて圧勝。

 混戦となったその後ろは、ザッツザプレンティが内外の追い上げを凌いで2着を確保。シンボリクリスエスはネオユニヴァースとの争いを制したものの、2年連続の3着となった。

 勝ったタップダンスシチーは、6歳にしてG1初制覇を果たし、ジャパンカップでの逃げ切り勝ちは、カツラギエース以来19年ぶり2頭目。2着馬につけた9馬身という着差は、JRAのG1での最大着差となる、圧巻の逃走劇であった。

 タップダンスシチーはその後、翌年の宝塚記念も勝利して、2つ目のG1タイトルを獲得。現役引退時には獲得賞金でシンボリクリスエスを抜いて外国産馬トップとなり、外国産馬史上初となる10億円超をマークした。

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