スペシャルウィークvsモンジュー、オグリキャップvsホーリックスなど【ジャパンC名勝負 5選①】
1981年に世界に通用する馬を作る目的で創設されたジャパンカップ。グレード制が導入された1984年にG1格付けを果たし、1992年には日本初の国際G1に指定された。2000年からは日本の最高賞金レースとなっている。開催日程や施行条件は第1回から基本的に変わらず、改修工事などを除いては11月の東京芝2400mで行われてきた。そんなジャパンカップの歴史の中から、前半は2002年までの5つのレースをピックアップして紹介する。
①1984年(勝ち馬カツラギエース)
最初に取り上げるのは、歴史が動いた第4回ジャパンカップ。1981年の創設以来、外国馬が3連覇を達成した。前年のキョウエイプロミスがスタネーラのアタマ差2着に好走していたが、3年間で出走したそれ以外の日本馬は全て5着以下。外国馬にいいようにやられており、まだまだ世界との差を感じざるを得なかった。
そんな中迎えた第4回ジャパンカップには、そんな状況を打破するべく2頭の3冠馬が出走していた。
1頭目は、前年の3冠馬ミスターシービー。3冠達成後は1年近い休養を挟むこととなるが、復帰戦の毎日王冠で上がり最速の2着に食い込むと、続く天皇賞(秋)を勝利した。完全復活を印象づけてのジャパンカップ出走であった。
もう1頭の3冠馬は、1年下のシンボリルドルフ。こちらは史上初となる無敗の3冠馬。デビューから無傷の9連勝をかけて、ジャパンカップに出走していた。ミスターシービーは1番人気、シンボリルドルフは4番人気にそれぞれ推され、発走を迎えた。
レースは、カツラギエースがハナを切り、後続を10馬身以上引き離す大逃げ。ポツンと離れた2番手にはウインがつけ、シンボリルドルフは中団の前あたりの位置どり。ミスターシービーは馬群から離れた最後方を追走していた。
ペース自体は速い流れではなかったが、10番人気の伏兵カツラギエースの逃げということで、自身が目標になるのを嫌って2番手以降は動くに動けず。カツラギエースは3〜4角で息を入れて後続を引きつけ、2馬身ぐらいのリードで4角を回り、最後の直線へと向かう。
直線に入ると、逃げるカツラギエースに内から2番人気のベッドタイム、外からシンボリルドルフと3番人気マジェスティーズプリンスが差を詰めてくる。
残り200mではベッドタイムに半馬身差まで詰められたカツラギエースだったが、楽に逃げていたぶん余力があり、逆にジリジリと引き離していく。最後はベッドタイムに1馬身半の差をつけて勝利。
ベッドタイムからアタマ差の3着にシンボリルドルフが入り、さらにハナ差でマジェスティーズプリンスが続いた。
勝ったカツラギエースは、同年の宝塚記念に続いて2つ目のG1タイトルを獲得。毎日王冠ではミスターシービーに勝利していたものの、続く天皇賞(秋)で5着に敗れたことで人気を落としていた。
同世代のミスターシービーにはクラシック3冠を含めてG1では全敗だったが、初めて先着。ひと学年下のシンボリルドルフにも初黒星をつけ、日本調教馬初となるジャパンカップ制覇という大仕事をやってのけた。
近年は日本馬が勝って当然という感覚になっているジャパンカップだが、その歴史の扉を開いたのは、カツラギエースの勝利であった。