シュヴァルグランやスクリーンヒーローなど! 才能開花の伝統重賞【アルゼンチン共和国杯名勝負5選】
1963年に、アルゼンチンとの友好と親善の一環として「アルゼンチンジョッキークラブカップ」の名称で創設された、アルゼンチン共和国杯。日本における国際交換競走としては、最古の歴史を誇るレースである。1984年に、秋の目黒記念に代わるレースと位置づけられてからは原則、目黒記念と同じ東京芝2500mのハンデキャップG2として行われている。そんなアルゼンチン共和国杯の歴史の中から、ピックアップした5つのレースを紹介する。
①1991年(勝ち馬ヤマニングローバル)
最初に取り上げるのは、G2格付けとなって6年目、1991年のアルゼンチン共和国杯。この年の勝ち馬ヤマニングローバルは、名手武豊騎手が惚れ込むほどの素質馬であった。
ヤマニングローバルは、史上3頭目の3冠馬ミスターシービーの初年度産駒で、デビュー前から素質の高さは話題となっており、「ミスターシービーの最高傑作」などといわれるほどであった。
そして武豊騎手を鞍上に迎えてデビューすると、単勝1.3倍の評価に違わぬ走りで3馬身差の快勝。続く黄菊賞、デイリー杯3歳S(現デイリー杯2歳S)も単勝1倍台の人気に応えて快勝。翌年のクラシック最有力候補との呼び声も高かった。
しかしデイリー杯3歳Sのレース後、骨折が発覚。クラシックどころか、生命の危機まで危ぶまれるほど重度なものであった。その骨折の報を聞いた武豊騎手は、「この馬で取るはずだった来年のG1を4つ逃した」とのコメントを残した。
名手のこんな逸話が残るほど、素質の高さを評価されていた馬の長期離脱は、ファンにとってもかなりの衝撃であった。
だが陣営は、競走馬としての復帰を諦めていなかった。懸命なケアにより、予後不良を回避したヤマニングローバルは、骨折から1年2ヶ月が経った5歳(現4歳)の1月、再びターフに戻ってきた。
復帰戦の洛陽Sは結果こそ4着だったが、無事にレースを終えることができた。しかしその後はダートを試したり、千四から二四まで様々な距離に挑戦するも、復帰後9連敗。やはり休養前の走りを望むのは酷だと、誰もが思ったタイミングで迎えたのがアルゼンチン共和国杯であった。
ヤマニングローバルの背に武豊騎手の姿はなく、鞍上はテン乗りの横山典弘騎手。単勝14.3倍の5番人気に支持されていた。人気の中心は、重賞2勝のホワイトストーン。
G1でも一線級相手に差のない競馬をしており、前年の有馬記念でも1番人気に推された馬であった。トップハンデとなる60キロを背負っていても、単勝3.1倍の1番人気に推されていた。
レースは速めの流れで進み、先行勢は苦しくなって総崩れの展開。中団につけていたホワイトストーンも60キロが堪えたのか、早々と後退して15着に大敗した。そんな中、道中後方集団で脚をためていたヤマニングローバルが、直線外から鮮やかに抜け出しての快勝。
勝ったヤマニングローバルは、10戦目にして復帰後初勝利を飾り、デイリー杯3歳S以来2年ぶりの美酒となった。ちなみに、同日に行われたマイルCSで勝利したダイタクヘリオスは、そのデイリー杯3歳Sの4着馬であった。
2本のボルトが入ったまま懸命に走り続けた素質馬の復活劇は、並外れた精神力を持つヤマニングローバルと、諦めずにケアをし続けた陣営の努力の賜物であった。