サイレンススズカ ~天才の手腕によって覚醒した最強の逃げ馬。今なお語り継がれる伝説
サイレンススズカ(Silence Suzuka)
サイレンススズカ。悲劇的な最期で知られる悲運の名馬だ。圧倒的なスピードを誇り、誰も追いつけない大逃げは、今なお多くの競馬ファンを魅了しつづける。そんな伝説的な名馬のキャリアを今一度振り返ろう。
プロフィール
性別 | 牡馬 | |
父 | サンデーサイレンス | |
母 | ワキア | |
生年月日 | 1994年5月1日 | |
馬主 | 永井啓弍 | |
調教師 | 橋田満 | |
生産者 | 稲原牧場 | |
通算成績 | 16戦9勝【9-1-0-6】 | |
獲得賞金 | 4億5598万4000円 | |
主な勝ち鞍 | 1998年 宝塚記念 | |
受賞歴 | 1998年 JRA賞特別賞 |
影すら踏ませぬ逃亡者
1990年代の競馬の話をするのであれば、この馬のことを語らないわけにはいかない。なぜなら、サイレンススズカはそれまでの我々の常識を変えた馬であり、以降の日本競馬を変えるはずの馬であったからだ。
父サンデーサイレンス、母ワキアの間に誕生した仔馬は、デビュー前から関係者の間では期待された存在であった。新馬戦や未勝利戦には出走せずに、いきなり500万下条件から出走するプランも考えられていたという。
結局デビューは新馬戦となったが、単勝1.3倍の一番人気に応え、1.1秒差をつける圧勝をみせる。2戦目ではクラシックを見据え、弥生賞へ向かった。しかし、ゲート入り後に暴れ始め、鞍上を振り落としてゲートを潜って外に出るという行動をとる。実はこの行動には陣営の苦悩があった。幼少期に馬房で寂しさを紛らわすために旋回を始めたサイレンススズカ。旋回は蹄に大きな影響を与えるためにやめさせようとした陣営は、寂しさを紛らわせるために厩務員が馬房の前で寝るといった対策をしたのだ。その厩務員がゲート入り後に離れていったために追いかけようとした、という関係者談が後に判明している。仕切り直してゲートに入ったが、再び暴れたため10馬身程後ろからのスタートとなり、結果8着に敗れる。
皐月賞の出走権は逃したが、日本ダービーに出走するために4歳500万下、プリンシパルSと連勝し、日本ダービーの切符を掴み取った。しかし、ダービーではイレ込みが激しかったうえに進路もひらかず9着におわる。その後はレース選択や鞍上などを試行錯誤するが、気性が激しくなかなか結果を残せない。しかし、サイレンススズカは一人の天才の手腕によって覚醒のときを迎える。
香港国際カップ(GⅡ)にて、初めて武豊を鞍上に据えたことが転機となった。レースでは逃げる展開となり、5着に敗れるも武豊はサイレンススズカの特徴を掴み、これにより代名詞となる”大逃げ”というスタイルが確立されていく。
5歳になったサイレンススズカはもう誰にも止められなかった。初戦のバレンタインステークスを1000m57.8秒というハイペースを刻み、2着に4馬身差をつけて勝利。次の中山記念も完勝し、重賞初制覇を果たす。小倉大賞典でもトップハンデの57.5キロを背負いながらもレコードで勝利した。
続く金鯱賞はサイレンススズカの象徴的なレースとなる。強豪相手に前半1000mを58.1秒、後半1000mを59.7秒で走りきり、2着馬に1.8秒つけるという重賞とは思えない結果を残す。そして満を持して、宝塚記念に挑戦した。距離が適性より長いと考えられていたため、1番人気ではあるが単勝2.8倍というサイレンススズカにしては物足りない人気であった。しかし、そんな喧騒をよそに見事GⅠ初勝利を収める。
秋シーズンは天皇賞(秋)を目標に掲げ、叩きの毎日王冠に出走する。この頃は外国産馬にクラシックの菊花賞に出走の権利がなかったため、4歳の無敗外国産馬であるエルコンドルパサーとグラスワンダーが毎日王冠に挑戦を表明した。それによりGⅡにも関わらず大きな注目を集め、東京競馬場に13万3461人が詰めかけた。レースではサイレンススズカが相変わらず1000m57.7秒というハイペースで飛ばし、2馬身1/2をつけて勝利する。上がり最速がエルコンドルパサーの35.0秒に対して、逃げたサイレンススズカは35.1秒という目を疑うタイムを計測した。
目標である天皇賞(秋)を迎え、サイレンススズカは絶好調であった。レースでは、前半1000mを自己最速の57.4秒、2番手に10馬身差をつけて飛ばす。誰もがレース後にサイレンススズカの強さを再確認するはずであったが、4コーナー手前で突然失速して競走を中止した。覚醒したサイレンススズカを初めて止めたのは、どの馬でもなく骨折だったのだ。左前脚の手根骨粉砕骨折。夢半ばで予後不良となった。
もしサイレンススズカが最後まで走り切っていたらどのような結末になっていたのか。また、その後の馬生はどのようなものとなっていたのか。私達にとてつもない衝撃を与え、果てしない夢を与え、耐え難い悲しみを与え、わずか5歳という若さで彼の物語は終わった。しかし、未だに我々の脳裏に彼の走りは焼き付いており、伝説として語り継がれる。
(文●沼崎英斗)
※文中の馬齢は当時の表記