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帝室御賞典競走当日の根岸競馬場の様子(1908年)【馬の博物館所蔵】
帝室御賞典競走当日の根岸競馬場の様子(1908年)【馬の博物館蔵】

世界有数の規模へと成長した日本競馬。その150年の歩みは、開国や戦争、制度改革といった日本近代史の転換点と重なっている。本特集では、その歴史を五つの視点から読み解いていく。[2/5ページ]

第2章「明治国家と競馬」

~天皇賞の源流~

 明治維新後、日本は急速な近代化の道を歩み始める。

「明治政府にとって最大の課題の一つが、不平等条約の改正でした」

 秋永さんはそう前置きする。

 欧米列強と結ばれた条約は、日本にとって不利な内容を含んでいた。これを改正するためには、日本が“近代国家”であることを国際社会に示す必要があった。その象徴的な政策が、いわゆる欧化政策である。

 鹿鳴館外交に代表されるように、西洋文化を積極的に取り入れ、制度や都市景観、生活様式に至るまで近代化を推し進めた。その文脈の中に、競馬も位置づけられていた。

「競馬は欧米では社交文化の一つでした。上流階級が集い、交流する場でもあった。日本でも同じような空間をつくることが、近代国家としての演出につながったんです」

 実際、当時の競馬場には政財界の要人が数多く名を連ねている。伊藤博文、西郷従道、さらには三菱財閥の岩崎弥之助らの名も記録に残る。

「競馬は単なるスポーツではなく、政治的・外交的な社交の場でもありました。各国の公使や大使級の人物が集う場で、日本の近代化を示しました」

 つまり明治期の競馬場は、“外交の舞台装置”でもあった。

 明治天皇が競馬をご観覧されたことは、その時代を象徴する出来事の一つである。

「天皇が競馬場に足を運び、菊の紋章が入った賞品を下賜したことは大きな意味を持ちます。」

表彰台前に飾られる御下賜品「御紋付花盛器」日本レース倶楽部写真アルバム/力一ル・ルイス撮影 1908年(明治41) 春季【馬の博物館所蔵】
表彰台前に飾られる御下賜品「御紋付花盛器」日本レース倶楽部写真アルバム/力一ル・ルイス撮影 1908年(明治41) 春季【馬の博物館蔵】

 こうして始まったエンペラーズカップは、のちの天皇賞へとつながっていく。

 天皇からの御下賜品が与えられるレースが行われることは、日本における競馬の地位を一気に引き上げた。単なる娯楽ではなく、国家的行事としての性格を帯びることになったのである。

「“政府が積極的に競馬を支援している”というメッセージを欧米人に発信した側面があります」

 現在、サッカーの天皇杯や大相撲の優勝賜杯など、菊の紋章が入った賞品が下賜されるスポーツ行事は多い。しかし、その起源をたどると、競馬がいち早く国家的なスポーツとして位置づけられていたことが分かる。

日本レース倶楽部写真アルバム カール・ルイス撮影 1908年(明治41)春季【馬の博物館所蔵】
日本レース倶楽部写真アルバム/カール・ルイス撮影1908年(明治41)春季【馬の博物館蔵】

 一方で、この時代の競馬はまだ大衆的な娯楽ではなかった。

「当時の馬券は非常に高額でした。一般庶民が気軽に楽しめるものではなかったんです」

 当時の馬券は、1枚20円。公務員の初任給が75〜80円だったことを考えると、現在の価値に換算しておよそ5万〜7万円に相当する。複数人で1枚の馬券を購入することもあったというが、現在ほど大衆的に馴染んではいなかった。

 当時の競馬は、上流階級を中心とする文化であり、外交と結びついた“特別な空間”だった。

 だが、この競馬がやがて国家財政や軍事政策と結びつき、より広い層へと関わりを広げていくことになる。

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