HOME » コラム » 競馬の基礎知識 » 凱旋門賞には日本のホースマンたちの“夢”がつまっている――。日本馬挑戦の歴史を回顧する » ページ 3

制覇まであと1歩と迫った2頭

 もちろん、一流馬が海外遠征ばかりでは、国内のレースが盛り上がらないという意見も間違っていない。現に、春の大阪杯や年末の有馬記念に出走しているはずの馬たちが、ドバイや香港に遠征している。

 そのぶん日本のレースには、海外の強豪が遠征してきてくれればとても盛り上がると思うのだが、そういうわけにもいかないのが難しいところだ。やはり海外遠征という選択肢が増えれば、使い分けなども発生してくるし、それを面白くないと感じるファンも多いはずだ。

 それでもやはり、日本調教馬が凱旋門賞を制覇するところを早く見たいと思っているファンもいるはずだし、かくいう私もその1人だ。そう思う要因のひとつは、まったく歯が立たないわけではないという点が大きい。

 過去に何頭か、凱旋門賞制覇の頂まであと一歩に迫った馬がいたのである。1920年に記念すべき第1回が行われた凱旋門賞の歴史は、第二次世界大戦による中止を挟みながらも、すでに100回以上。その中で、日本馬の挑戦の歴史は1969年のスピードシンボリ(10着)から始まり、最初に述べたように、31頭が計34回挑戦している。その中で、勝利まであと一歩となる2着に食い込んだことが、3頭で計4回あったのである。

 まず最初に歴史の扉に手をかけたのが、1999年のエルコンドルパサーだ。エルコンドルパサーは4歳(現3歳)でジャパンカップを制覇した後、5歳シーズンは長期の欧州遠征を敢行した。G1サンクルー大賞やG2フォワ賞を制して、現地でも有力馬の1頭として本番に臨んだ。

 そしてレースでも果敢にハナを切り、残り300m地点では後続の2馬身の差をつけて、悲願達成は目前だった。しかし残り100mまで守った先頭の座は、最後の最後にフランス3歳馬モンジューの手に渡ってしまい、半馬身差の2着に敗れた。

 れでも3.5キロの斤量差がありながら最後まで抵抗し、3着馬を6馬身突き放したレース内容は、日本調教馬による勝利が近いと感じさせるものであった。

 2回目の2着は、2010年のナカヤマフェスタだ。この年の日本勢は、後にドバイワールドカップを勝利する3歳馬ヴィクトワールピサ(7着)との2頭で挑んでいた。

 ただ、両馬ともに前哨戦で敗れていたことと、国内でも断然の実績というわけではなかったため、現地での評価も伏兵扱いであった。

 その評価を覆す走りを見せたナカヤマフェスタは、中団からレースを進めると直線は馬群の外に出し、残り300mで先頭に立つ。しかしその内を連れるように伸びたワークフォースが並びかけ、この2頭による一騎打ち。この争いをアタマ差で制したのはイギリス3歳馬のワークフォースだった。最後まで抵抗したが、またも追い比べで斤量差に泣いた形となった。

 奇しくもナカヤマフェスタの鞍上は蛯名騎手で、所属厩舎は二ノ宮厩舎。チームエルコンドルパサーでの挑戦は、またも2着となったのであった。

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