ドバイWCの日本馬激闘史(1) 引退レースのはずが……“砂の女王”を襲った悲劇
1996年の創設以来、世界最高賞金のレースとして広く知れ渡っていたドバイワールドカップ。サウジCが新設された2020年以降、世界最高賞金の座は明け渡したが、今でも世界のトップホースが集まるドバイミーティングのメインレースである。そんなドバイWCに挑戦した日本馬の歴史の中から、5つのレースをピックアップして紹介する。今回は1997年のドバイワールドカップ。

1997年ホクトベガ(競走中止)
ドバイワールドカップは、1996年に創設した。日本馬は創設初年度から参戦しており、ライブリマウント(6着)から日本馬挑戦の歴史は始まった。そして2年目となる1997年に挑戦したのが、最初に取り上げる「砂の女王」ホクトベガだ。
ホクトベガは4歳(現3歳)時に、まだ世代限定戦であったエリザベス女王杯を勝利。そのレースでベガが人気を集めていたことからくる、「ベガはベガでもホクトベガです!」というフレーズを聞いたことある人も多いだろう。
その後、7歳(現6歳)から本格的にダートへと主戦場を移すと、芝のレースに出走したエリザベス女王杯と有馬記念を除いて9連勝。「砂の女王」として確固たる地位を築いたホクトベガは、8歳(現7歳)にして初の海外遠征を敢行。それが招待を受けた、第2回ドバイワールドカップであった。
このレースは、ホクトベガの引退レースになることが決定されており、まさに現役生活の集大成とする予定であった。レースがちょうど種付け時期だったこともあるため、レース後にはそのまま欧州に渡り、欧州で種付けをしてから帰国するスケジュールが組まれていた。
猛烈なスコールによって5日間の順延ののち、4月3日に行われたレースでは、ホクトベガは中団後方寄りを追走。しかし、勝負どころの4角で転倒。さらにその後ろを追走していた馬も巻き込む大事故となってしまい、ホクトベガは複雑骨折。回復の見込みがない予後不良の診断を受け、安楽死となった。
鞍上の横山典騎手は後にインタビューで、「ホクトベガは自分の命と引き換えに僕を守ってくれた」と語っている。落馬した横山典騎手が走ってくる後続馬に巻き込まれるのを、ホクトベガは自らの命を懸けて守ったのかもしれない。
ちなみに、この第2回ドバイワールドカップを制したのは、前年のジャパンC覇者シングスピール。第1回はアメリカのシガーが勝利して米ダート馬の実力を示していたが、2年目にしてダート未経験の欧州馬が勝利するという、歴史的なレースとなった。
【了】
(文●中西友馬)
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